税理士の伴 洋太郎(ばん ようたろう)@ban_tax240です。
西尾歴史マイスター認定試験の第5回学習会に参加してきました。
これまでの経緯はコチラ。
本日の学習範囲は以下の2地区です。
- 吉良地区(吉良中学校区)
- 幡豆地区(幡豆中学校区)
当記事では、学習内容の一部をお伝えいたします。
吉良地区について学んだこと
地名の由来
西尾市には八ツ面山という山があります。
この山はかつて、雲母(きらら、うんも)とよばれる鉱物の産地であったことから、『雲母山(きららやま)』と呼ばれていました。
「吉良」の地名は、平安時代に成立した『吉良荘(きらのしょう)』という荘園の名に由来しますが、そのおおもとは雲母山にあります。
忠臣蔵の敵役 吉良上野介義央
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ 1641〜1702)は、江戸時代の旗本です。
吉良家は江戸幕府の儀式や典礼を司る「高家(こうけ)」と呼ばれる地位にあり、義央の頃には「高家肝煎(きもいり)」とよばれる、高家の中で最も高い位の三人に選ばれました。
忠臣蔵における赤穂浪士の敵役として、その存在を知る方は多いことでしょう。
物語中での描かれ方から、世間一般に良くないイメージを持たれがちな義央。
しかし地元では今でも、新田開発や治水事業の実績から『名君』として慕われています。
西尾市吉良町には、義央が治水事業として築いた『黄金堤』が今も残っています。
吉良のお殿様を悪者として描く時代劇は『見てはならぬ』と親から躾けられた。
今回の学習会の講師をされた方(吉良町出身)はそうおっしゃってました。
いまなお残る豪商の邸宅 旧糟谷邸
旧糟谷邸は、江戸時代の豪農・豪商である糟谷縫右衛門(かすやぬいえもん)家の屋敷です
糟谷家当主は、室町時代の終わりより、代々縫右衛門を名乗りました。
詳細に恵まれた家系のようで、江戸時代には三河木綿の問屋や金融業により大きな財を成しました。
また大多喜藩(千葉県)の御用商人を務め、苗字帯刀を許されるほどの力を持つに至ります。
吉良町には、糟谷家の屋敷(愛知県の有形文化財)が残っており、一般公開(有料 300円)されています。
というわけで、学習会後に行ってきました。
現地の様子
かつては4,500平米もの敷地内に数十棟の土蔵があり、屋敷を取り囲んでいたそうです。
現存しているのは主に屋敷部分のみでした。
土間です。
大商人のお屋敷らしい、立派なつくり。
当主が最も自慢していたという、茶室から眺めるお庭。
サンダルがなぁ…。
当主夫人のお部屋にあった説明書き。
「すばらしいではありませんか。」「わかるような気がします。」と、解説者の私情が滲み出ています。
敷地にある井戸は、石垣で覆われた『高井戸』という様式でした。
海抜の低いこの地域において、浸水時にも海水や汚水が侵入しないよう、工夫がなされているのだそうです。
大ベストセラー作家 尾崎士郎
尾崎士郎(おざきしろう 1898−1964)は、吉良町上横須賀に生まれた小説家です。
代表作は、1933年から20年ものあいだ新聞・雑誌に連載された自伝的大河小説『人間劇場』。
同作は川端康成の絶賛により大ベストセラーとなり、14回も映画化されるなど、絶大な人気を博しました。
旧糟谷邸の敷地内には、尾崎士郎の記念館があり、直筆原稿、書簡、著書、愛用品など、4,000点を超える所蔵品が順次展示されています。
伺ったところ、係員の方がとっても丁寧に解説してくださいました。
- バターン半島攻略中の日本軍にペン部隊(作家などからなる宣伝部隊)として従軍し、後方で呑気に過ごしていた。
- 坂口安吾に決闘状を送りつけ、殴り合いではなく酒の強さで打ち負かした末に、結局仲直りして親友になった。
- 酒に酔うと気前が良くなり、万年筆でも時計でも石灯籠でも、持ち物を褒められるとなんでもあげちゃう。
他にもいろんな話を聞かせていただき、『読んだこと無いけど好きな作家』になりました。
資料館の横には、東京から移設された士郎の書斎があります。
係員の方が撮影してくださいました。
ありがとうございました!
幡豆地区について学んだこと
地名の由来
- 地域にある『幡頭(はず)神社』に由来するという説
- 幡豆郡にあった8つの郷の一つ『礒泊(しはと)郷』の読みが訛ったとする説
- 停泊地を意味する『波止(泊)』から生まれたとする説
などがあります。
幡豆という呼び方は、やがて古代律令制の『参河国播豆郡(みかわのくにはずぐん)』につながったと言われています。
鳥羽の火祭り
鳥羽の火祭りは、毎年2月の第3日曜日に鳥羽神明社の境内で行われているお祭りです。
平成16年には、国の重要無形文化財に指定されています。
まつりでは、境内に高さ5メートル、重さ2トンの巨大な松明(すずみ、といいます)が2基設置されます。
2基のすずみにはそれぞれ「神木」と「十二縄」が仕込まれており、2つ地区の厄男が燃え盛るすずみの中からそれを取り出します。
どちらのすずみから早く取り出されるかで、その年の天候や豊作をうらなうのです。
鳥羽神明社の公式サイトに、尋常じゃないほど詳しい解説があります。
すずみの夜空を焦がすほどの巨大な火柱と、そこに突っ込んで行く厄男たちの姿は圧巻の一言、らしいです。
そう、僕はこのまつりを見に行ったことがないのだ(´Д`)
幡豆小笠原氏
幡豆小笠原氏は、鎌倉時代に深志(長野県松本市)から幡豆後にやってきた小笠原氏のことを言います。
徳川氏に従った幡豆小笠原氏は、幡豆の地で培った地の利(水の利)を活かした航海術に優れ、舟手衆として活躍したといいます。
なかでも小笠原信元(のぶもと 1544-1612)は、関ヶ原の戦いで師崎の城を守り、かの九鬼水軍の押さえを果たし、敵船を乗っ取るなどの功績を上げています。
また小笠原貞頼(さだより 生年不詳-1625)は、1593年に小笠原諸島を発見した人物ではないかとされています。
幡豆小笠原氏には「摂津守家」と「安芸守家」の2つの系統があり、それぞれ幡豆地区の「欠城」「寺部城」を本拠としていました。
この内、寺部城は今もその跡が残っており、学習会のあとに見学ツアーが実施されました。
寺部城址の様子
地元で「城山」と呼ばれる丘陵の先端頂上に、寺部城の本丸はあったそうです。
丘陵の傾斜を利用した土塁が、堀を形成しています。
ここから写真右上を見上げたところに本丸跡があります。
こちらが本丸跡です。丘陵の先端だけあって、海が一望できます。
ここからは三河湾と梶島(無人島)・佐久島などの島々、渥美半島や知多半島などを一望できます。
海上交通の要衝おさえていたことが伺えますね。
まとめ
西尾歴史マイスター認定試験第5回学習会の内容をお伝えしました。
全5回の学習会もこれが最後で、次回は本試験です。
学習会を経験してみて、結構出題ボリュームが多いことがわかりました。
復習しなきゃです(´・ω・`)
この記事を書いたひと
- BANZAI税理士事務所 代表税理士。1級ファイナンシャル・プランニング技能士。1982年6月21日生まれ。個人事業主、フリーランス、小規模法人の税務が得意で、一般の方向けにやさしい解説記事を書けるのが強み。詳しいプロフィールはこちら。
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